雪国

どーもBJRYOです






今回紹介するのはこちら、


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川端康成さんの『雪国』です。




今回も、聞いたことはあるけれど読んだことはない。
という方がたくさんいると思います。
何がそんなに良いのか!解説していきましょう。



作者川端康成とは?



ということで川端康成という聞いたことはあるけれどよく分からない人物を紹介していきます。

小説家川端康成という方は、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞された作家さんです。
このブログでは今まで、「老人と海」の”アーネスト・ヘミングウェイ”
「ヴェニスに死す」の”トーマス・マン”が受賞しているよ!
と紹介してきました、あのノーベル文学賞です。

この時点ですでに、何故川端康成という方が学校の授業で教えられ、教科書にも載っているのかがわかりますよね?
そして、気になるその受賞理由は、


日本人の心の精髄を、
すぐれた感受性をもって表現、
世界の人々に深い感銘を与えたため



なんだそうです。

川端康成という方の作品は”抒情的”と表現される作品が多いらしいのですが、
この”抒情的”というのは感情を述べ表すことという意味で、
音楽によく使われる言葉なんだそうです。

つまり、音楽を聴いて「ああ、悲しい曲調」とか「わお!弾んでいるね!」といった印象を受けるのと同じことを、川端康成という方は文章で表現していた、そしてそれが圧倒的に素晴らしく、世界中の人に伝わる表現だったということですね。


BJはこの『雪国』しか読んだことないです(笑)
しかも一回読んだだけです!!
けれどもわかる気がします。
悪魔でも個人的な見解ですがわかる気がします。




『雪国』の紹介



さあそれでは『雪国』のあらすじをさくっと紹介します。


島村という、親の遺産を受け継ぎ何不自由ない生活を送っている、妻子持ちの男。
島村はとある温泉町へと旅行に出かけるが、
そこで駒子という芸者に出会う。
そんな二人の恋模様。
結末やいかに!!


こんな感じです。



随分シンプルなあらすじだなあ。
と思いましたか?

実はここにはある深い訳があるんです。


というのも、BJがこの『雪国』を読み終わった直後の感想はこれです。


何だこれは!何を伝えたいのか全然わからん!!
そして終わり方。これはどういうこと?




そうなんです。
まったく理解できなかったんです!
なのでネットで解説や感想などを探し回ったんですが、これまたビックリ!

みんな曖昧にしか理解してない!!
具体的な解釈や解説がほぼない!!



という結果だったからです。


これにはBJも驚きました。
誰も自分なりの解釈すら曖昧にしか答えてないじゃない。
終わり方の意味や理由を答えられないのか?

しかしわからんでもないとも思いました。
確かにラスト、終わり方が一見するだけでは意味が理解できません。
本の解説の部分を読んでみると、
川端康成という方は省略して書くことが多いと説明してありました。

それは読者に想像の予知を持たせることや、自由な発想で読ませることができるからだということなんだそうです。


だがしかし、これから読もうと思っている方におすすめする身として、
自分がどういう解釈をしたのか、そして何を感じたのかを説明できないと人は読んでくれないし、
後に残るのは”読んだけど意味が分からなかった”という感想だけ。

本を読むという行為をそんな哀しい結末で終わらせたくない!
ということで、いつもの如くBJなりの『雪国』解説をしていきます。


『雪国』の紹介~BJ解釈編~



『雪国』を読んだことのある方が必ず抱く感想は、あのラストはどういうこと?
だと思います。
そんなラストの一文を簡単に紹介します。

葉子を抱える駒子が、島村には自分の犠牲や刑罰かを抱いているように見えた。
「どいて、どいて頂戴」
駒子の叫び声が島村にも聞こえた。
「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」
そう叫ぶ駒子に近づこうとして目を上げた途端、
さあと音を立てて天の河が島村の中へ流れ落ちるようであった。



これで終わりです。


一体何が意味が分からないのか。
それは次の三つです。

・自分の犠牲や刑罰って何?
・「気がちがうわ」って誰に言ってんの?
・天の河は何を表しているの?



これらを説明するために、省略された人物像を併せて人物紹介をします。


まずは主人公島村です。

親の遺産で何不自由なく暮らしていた島村は、仕事もろくにしていません。
非現実的な気持ちになれるという理由から登山を好んで行います。
色白な小太り。

ここまで聞いて何を感じます?

そうです。
どうしようもない駄目人間をイメージしません?
妻子持ちという設定ですが、恐らくお見合いかこの時代で言ういいなずけのような、決まりきった結婚をしているだけで、容姿がいいとも思えない。
更に想像を膨らませると、この島村という人物は、無為徒食な生活をしていると本の中でも、あらゆる紹介文にも書いてあります。
無為徒食とは、”特に何をするでもなく無駄に毎日を過ごす”という意味の四字熟語です。
つまり、自分は何のために生きているのかがわかっていない。

そんな島村が、ただ何となく生きているという現実から抜け出すため、とある温泉町へと旅行に出かけ、
そこで駒子という芸者に出会うんです。


そんな芸者駒子、

美しい容姿を持ち、ずっと求婚されている相手もいるくらい。
踊の師匠の息子という許婚者の療養費を作るために芸者になった、という一途なところがある。
しかし、島村と出会うことでその思いは島村へと向けられ、情熱的な想いをぶつけてくる。
許婚者の死に目にも「死んでいく人なんか見たくない」と発言し、島村のもとから離れなかった。
そんな必死に生きようとする姿に島村は惹かれていく。

という人物ですが、思い出してください。
あの島村にそれほどの魅力がありましたっけ?(笑)
BJが思い当たる唯一の魅力は莫大な財産だけです。
つまり駒子は、お金目当てで島村と一緒になろうとしたんじゃないかなと思います。


そんな駒子の許婚者だった師匠の息子。
その師匠の息子に恋心を抱いていたのが葉子です。


葉子は、
物凄く美しい声を持ち、既にお相手がいる男性が病気の中、最後まで看病をし続けた女性です。
駒子の許婚者だった相手のお墓に、毎日お墓参りをしている。
駒子には「気がちがう」と言われています。


そんな三人が織りなすラストシーン。

まずは”駒子が自分の犠牲や刑罰かを抱いているように見えた”
という一文の犠牲と刑罰とはなにか。


その前に補足説明をいくつか。

ラストのこのシーンですが、葉子は芝居小屋の二階から落ちてしまい絶命していると思います。
そして何日か前に、葉子は島村に「次、東京に帰る時は自分も一緒に連れて行ってくれ」と頼んでいます。
そして、妻子持ちのため駒子とそれ以上の関係には発展させる気がない、という島村の想いを葉子に見透かされ、そんな葉子に島村は惹かれはじめ、そんな島村の異変に駒子は気付いています。


それを踏まえてこのシーンを見ていくと、

駒子は言ってみれば、よりお金を持っていそうな人と結婚するために生きていたんではないか。
それが最初は求婚されていた相手であり、踊りの師匠の息子であり、島村だった。
ホステスみたいな。と一口に言ってしまうと語弊がありますが、イメージはホステスです。

そんな駒子は病気を患い先の短い許婚者に見切りをつけ、島村へ向かいますが、
本来ならばその病気の看病をして、側についていた方がいいのは駒子でした。
しかしそれを放棄して葉子になすりつけた。

つまり可能性のない葉子の時間を使わせた。
つまり自分の犠牲に葉子を使ったと考えると、犠牲の部分が説明できます。


そして刑罰とはなにか。


想像するに、このラストの時点では、島村の駒子への想いはほとんどなくなっていて、
東京に帰りもうこの地を訪れることはないだろうと思っていた(実際にそういうことが書いてあります。)。
葉子と一緒に東京へ行くことを考えていた。

ということを駒子がわかっていた場合、
葉子の健気な姿、献身的な姿を作り出し、尚且つそれを島村の目に入れさせたのは駒子自身です。
つまり自業自得という言葉の通りになり、
自分で作り出した刑罰(葉子)を抱いていたということになります。



そして次に誰に向かって「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。」と言っていたのか。


これは島村に向かって言っていたと思います。

その前に何故駒子は葉子の事を「気がちがう」と言っていたのかですが、
駒子からしてみれば、師匠の息子で自分の許婚者という相手がいます。
その許婚者、言ってみれば他者が介入しようがない関係です。
そこへ恋心を抱きながら介抱し続けている葉子という女性が現れ、
その男性亡き後も毎日お墓参りをしているということを知っていれば、
駒子からしてみれば十分に「気がちがう」と見えると思います。


そして今、島村の葉子への好意を察知し、自分への冷めた想いを見抜いた今、このままでは東京に帰り二度と戻ってこないという切羽詰まった状態、葉子の転落(”人形のように落ちた”という描写があるので、ひょっとしたら自殺だったのかもしれないが、事故か自殺かどちらにせよ)、
駒子は取り乱しながら葉子を抱え、島村に見せ、

「この子、気がちがうわ。気がちがうわ。(頭がおかしい子なの!)」
「だから諦めて私を選んで頂戴!!」


と叫んだんじゃないでしょうか。




そして最後、天の河は何を表しているのか。


ここからは島村の視点へと切り替わります。

実はラストのシーンにもう一つ補足説明をしなければいけません。
それは、
島村と駒子が芝居小屋(ちなみに火事で燃えてます)へと辿り着くまでに、
ほうぼうで人から「何人かまだ中に人がいるが、子供なんかは窓から放り投げられて無事だ。」
と話しているのを耳にしています。

そして現場に辿り着くと、二階から転落する葉子を目の当たりにするんです。


その時島村の中で何が起こったのか?


島村は今まで、何のために自分が生きているのか知らなかった。
という設定があったとしたらと考えて欲しいんです。
そんな島村が人々の話を覚えていたとしたら、このシーンをこう捉えてもおかしくないはずです!


葉子は自分の命を懸けて
子供たちを助けていたんじゃないか





仮に島村がそういう風にこの葉子の転落・死を捉えたんだとしたら、
島村にはまるで激流のように次のような考えた方が湧いて出てきます。



誰かのために生きる人生がある





つまり夜空に輝く天の河は、その雷鳴のような光と、その考えが湧いて出た時の閃きの電球の代わりを、
そして激流の流れの如く自らに芽生えた気持ちを表していたんです。




そして物語はここで終わり、その先は読者の想像にお任せとなります。






感想





ということでBJなりの解釈いかがでしたでしょうか?
まだ読んだことのない方にはあまり理解できないかもしれません。
しかし、一度でも読んだことのある方にはあるひとつの答えとして見ていただけると思います。


みなさん!
これが川端康成なんです!!
現代の本にはしっかりと物語のラストが語られ、伏線も回収される作品が多いです。
それは読者にとってはありがたいことではあります。

読み終わってモヤモヤする本。
観終わって「んっ!?」ってなる映画。
観に行って「どういうこと?」が残る舞台やミュージカル。


嫌ですよね(笑)


だからしっかりと何を伝えたいのか、結末は何なのかを観客は求めます。


しかしですよ?
世の中が全部そんな風に”しっかりとした答えのあるもの”で溢れかえっていたらどうなりますか?


恐らく想像力は使わなくなりますよね?
物語も単調なものばかりになります。
ハッピーエンドかバッドエンドかどちらかしか存在しなくなります。

応用する能力や新しく何かを生み出す力も育ちにくいと思います。
あらゆる分野で似通った表現者ばかりが増えていきます。


川端康成は近代文学者として日本を代表する作家だと紹介されています。

それはそんな現代の状況を既に見据えて、何十年も前から我々にあてて『雪国』のような
作品を残していたからだとしたら?

妙に納得できませんか?


まだひとつの作品を一回しか読んだことのない人間の感想です。
だからこその陳腐な感想であり、だからこその物凄い作品である。


あなたはどう感じましたか?







そして話は変わりますが、
この『雪国』という作品でその名前以上に有名な一文、

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった


ですが、
これも読者が読むだけではっきりと情景をイメージできて、一気に物語へと入り込むことができるという、
物語の冒頭・出だしのお手本中のお手本。
というところが凄いんです。

さすがノーベル文学賞受賞者!



と、このブログ始まって以来の長文を無駄に伸ばしつつ、
ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。
この本があなたの人生を変える一冊になりますように。




以上BJRYOでした






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