「桃太郎」で読書感想文を書いてみよう

どーもBJRYOです






IMG_0620[1]


「桃太郎」 BJRYO




この物語は”勧善懲悪”という四字熟語が鍵を握っている。
話の展開や設定などには諸説あるらしいが、ここでは私が記憶している内容で話を進めていくことにする。

とある山奥に2人で暮らすお爺さんとお婆さんがいました。
この老夫婦の間に子供はおらず、毎日を細々と暮らしていたのでしょう。

そんなある日、お婆さんが川で洗濯をしている最中に、川上からお婆さんでも運べるくらいの大きさの桃が流れてきました。驚いたお婆さんはそれをとりあえず拾います。

このあたりにフィクションのご都合主義感が垣間見えますが、この時のお婆さんの心情を一言で表すならば、「食ってしまおう」だったことに異論はないはずである。

絵を見る限り家の側に井戸らしきものが見当たらないので、老夫婦の生活用水はこの川から汲んできていると推察できる。川に近すぎると雨季や突発的な豪雨による増水に対応できないので、その辺りの事情を考慮した距離にある家に、お婆さんはこの桃を運んで行きました。

山へ柴刈りに行っていたお爺さんの帰宅を待ち、お婆さんは拾ってきた桃をお爺さんに見せました。ここで覚えておいて欲しいことだが、お爺さんは山へ”しばかり”に向かうことになっているが、ここでの”しば”はゴルフ場に代表されるグリーンの『芝』ではない。ここでお爺さんが刈りに行っている”しば”は薪(たきぎ)や薪(まき)の材料となる細い雑木のことを表す『柴』のことである。お爺さんはこの柴を町へ売って生計を立てていたのだろう。悪魔でも余談である。

さて、疲れて帰ってきたお爺さんが、我が家に鎮座している大きな桃をお婆さんに見せつけられた時の感情は何とも窺い知れない部分ではあるが、私ならば驚きを通り越して笑ってしまうだろう。

お婆さんか桃を取得するまでの簡単な経緯と、何故それを持ち帰ったのかという理由を聞いたお爺さんは、恐らくそれほど協議せずに、「桃を食べよう」という結論を導き出したと思う。

2人の老夫婦が食べていけるくらいの金銭に換えるためには、お爺さんはどれくらいの柴を毎日刈らなけらばならないのかはわからないが、白髪まじりの髭を蓄えているところを見るとそれなりに年齢を重ねているであろうし、それに伴う体力の衰えも考慮すると、沢山は採れないであろう。

つまりこの老夫婦は質素な生活を余儀なくされているということだ。当然お腹も減っているだろうし、果物をお腹一杯食べるというのも、何十年振りという行為のはずである。

桃を食べるために、お爺さんは鉈を振りかざし桃の頂点から真っ二つに切り分けました。するとその中から赤ん坊が一人出てきます。そして老夫婦はこの赤ん坊に、桃から生まれたので「桃太郎」と名付け育てることにします。

このあまりにも有名な展開は、世代を超えて日本中の人が知っている名場面である。湧き出てくる様々な疑問や老夫婦の哲学的な宗教的な行動理念の解釈があるだろうが、そこは「これは童話であり、対象年齢が設定されています」と言う言葉で流すことにしよう。

こうして、老夫婦のもとで育てられることになった桃太郎は、愛情を全身に注がれながらすくすくと育っていきました。時代背景なども考慮してきりよく15歳、15年の歳月が流れたことにしようと思いました。

しかしそうしてしまうと、お爺さんやお婆さんが少し心配になる自分がいることに気付きました。15年ももたないかもしれない、仮に生きれたとしても桃太郎を桃太郎と判断できないかもしれない。

それでは物語の重要な道具となるきび団子を作る人がいなくなってしまうので、桃太郎は我々人間の人智を超えた成長速度で大きくなっていったとしました。けれどもそうなると、もしも桃太郎の寿命が我々人間と同じくらいだとした場合に、物凄い速度で老夫婦を追い越し死に至る映像が脳裏によぎり、桃太郎の生まれた意味が鬼を倒すためだけになってしまい、それはそれで問題になってしまう。

まさか桃太郎から、現代の世界が抱える「クローン」やDNAを移植した「人工生物」のような倫理や道徳の問題へと発展するとは思いもよらなかったが、この話題もこの物語がフィクションであり、上記のような言葉が効力を発揮するという側面を大いに利用して流してしまおう。

驚異的な能力を持って生まれた桃太郎は、そのあらゆる能力も当然我々では計り知れないほどに高かったと予想できる。それは幸か不幸か正義心のような項目にまで根を伸ばしていたのであろう。

ある日桃太郎は自発的に、町や村を襲い金品を奪っていく鬼を倒しに行くと老夫婦に告げました。

物分かりが善いのか、桃太郎に完全に言いくるめられたのか、その言葉を待っていたのかは一考の余地があるところだが、老夫婦はこの桃太郎の要望を快諾し、お爺さんは装備をこしらえ、お婆さんはお待ちかねのきび団子を桃太郎に持たせました。

お爺さんがどこから刀を調達してきたのか、そして日本一と書かれた上り旗は一体誰に向けたメッセージなのかという疑問を読者に与えながら、桃太郎はきび団子だけを腰に下げ、元気に出発しました。

道中[犬・猿・雉]という三匹の動物に、それぞれ「お腹が減っているからその腰に下げたきび団子を下さい」とお願いされ、きび団子のお礼に旅に同行してくれるというまったく同じ展開が続きます。

そしてあらかじめ場所を知っていたのか、桃太郎と仲間たちは鬼が島へと到着します。

そしてあっという間に鬼の本拠地へ乗り込み、鬼たちを次々と倒していきます。超人桃太郎ならまだしも、[犬・猿・雉]にも足下を掬われる鬼とは一体何なのか。小人サイズの鬼なのか、三匹が[シベリアトラ・マウンテンゴリラ・雉というリングネームのレスラー]なのか謎は深まるばかりだ。

かくして鬼を退治した桃太郎一向は、鬼たちが貯蔵していた各地の金銀財宝を全てかっさらい、それを戦利品に老夫婦のもとへと帰り、その財力にものを言わせ幸せに暮らしましたとさ。

めでたし。めでたし。



という内容だったと記憶している。

今でこそ物語の端々の上げ足をとり、面白おかしく疑問を並べられるが、絵本の対象年齢だった当時の感想はもっと簡単だったはずである。

できるだけ当時の自分に回顧し、客観的にお子様目線で読んでみると、抱いた感想は四つでした。

世の中には善い人と悪い人がいること。悪い人は最終的に善い人に懲らしめられること。人に親切にすると味方になってくれること。善いことをするとご褒美がもらえること。

勧善懲悪を謳った「桃太郎」を純な気持ちでBJRYO少年が読むと以上のような感想を持った。決して的外れな感想ではないと願いたい。

しかしながら、この感想が良い感想だとは私は思わなかった。自分に子供がいたとしても、恐らく桃太郎は読ませないとまで思ってしまった。

それは何故なのか?

この「桃太郎」という童話を読むのは、大人ではなく子供であり、それもまだ自我すらも芽生えていない年齢の子供が対象であることが私をこの結論まで導いたんだと思う。

私が今の年齢になり、この時代を生きている存在の一部として思う、現段階での大切なことは、『多様性』という言葉で表現できる。

全ての出来事、事象、項目には、あらゆる面から見ることのできる多様性が存在している。人間もその中の一つだと言える。

人には裏の顔や表の顔と言われる二面性があることは、あらゆる方面から研究され徐々に明かされている。そうでなくても自我が芽生え生きていくうちに、感覚的に自分の中の二面性に気付くはずだと思っている。

この二面性のような物事の捉え方を知っておくことが、生きていく上でとても重要な役割を担うことになる。

私が少年の心で抱いた感想はすべて、画一的な思考に流れてしまう危険性を孕んでいると思いました。

世の中には善い人と悪い人がいる。

果たして少年時代の私は何をもって人を、善い人と悪い人に判断するのだろうか?恐らく周囲の大人や親、あらゆるものを総合的に観察し、自分なりの判断基準を設けるといったことはせず、親の正義や道徳心の影響を色濃く反映した基準をもとに人を善い人と悪い人という二択に分類していくと思う。

勿論それがいずれ崩壊していくことは、年を重ねれば自ずと理解していくと思うが、その後その子供たちが形成していく新たな世の中を二分する判断基準は、自分自身で築き上げたように見える偏ったものになっていく。

何故そうなってしまうのかというのは、幼少時代に読み聞かされる「桃太郎」のような童話が伝える世界に存在する捉え方における一場面があり、親から教わる「してもいいこと」「してはいけないこと」という教育は、教育という名の一種の”洗脳”になっているからである。

故に子供自身は、自らが導き出したかのように錯覚してしまっている可能性が否定できない。洗脳と言うのは自分で解くことができない部類の操作行為だからだ。

その子供が錯覚している己の価値観は、五感を含むあらゆる器官にフィルターをかけてしまうことになる。これはある一部分などと言った生易しいものでは決してなく、全てがそのフィルターにかけられ選別されてしまうことになる。

その結果、私BJRYOが大切だと思っている、”多様性”というものから歳を重ねるごとに離れていってしまう。

世の中には大失敗や苦い経験を通して気付いた、物事の考え方や捉え方を持っている人がかなりの割合で居るはずである。そしてその新たな考え方によって生き方や、それこそ己の価値観が逆転したという人も同等数居るはずである。

幼少時代に親によってかけられた洗脳は自力では解けない。誰かに気付かされる以外には解除する方法がないと私は思っている。これは決して科学的な根拠があっての考え方ではなく、私自身の経験談に大部分が依存していることはご理解いただきたい。

「桃太郎」という童話が伝えるメッセージには、人間の善悪、他者との共生の地盤、行為の動機といった、今の私にも解答できない内容の一側面が、強烈に面白おかしく描かれている。

私は生まれてくる子供には本を好きになってもらいたいと心から願っている。

しかし、本や絵本には少なからず洗脳という要素が混ざっていることを、今の私は経験から理解している。今回「桃太郎」を読んだことで、私は本の持つ恐怖を身に沁み込ますことができ、本の持つ新たな可能性を覗くことができたと確信している。

将来生まれてくる我が子には、本を読むための教訓をまず教えようと思う。

それが、洗脳にならぬように気をつけながら。












という感じで読書感想文書いてみました!



どうですか?読書感想文ってこんな感じかなと考えながら書いたんですが、ちょっと硬すぎますかね?(笑)




僕だったらこんな読書感想文提出した生徒がいたら、すぐ親御さんに報告して三者面談ですかね(笑)






「桃太郎」でここまで考えるか!!
という言葉を受け流しつつ、


ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
この記事が読書感想文に困っている生徒の何かの参考になればいいですね。



洗脳しちゃうぞ♪♪






以上BJRYOでした









この記事へのコメント